d0iの連絡帳

気がむいたら書く

創作と模倣の間にはなにがあるのだろうか

機械学習屋の末席に加わって一ヶ月が経ちました。まだ仮採用ですが。もちろん、自分にはバックグラウンドがないので、まだまだ一員として活躍する、という状態にはなれていないですが。日々精進あるのみです。

さて、昨日 @kurekure_kun と久々にふと飲んでたのですが、気がついたことが。はたして創作と模倣の間には何があるのだろうか? ということです。

松原先生の 作家ですのよ (機械学習でSFのショートショートを作成する試み)に限らず、機械に創作めいたことをさせようという試みは多数あります。社内でもそのへんの議論や研究が多数走っているのですが、そこで聞いた中でも衝撃的な研究が、'Unsupervised Representation Learning with Deep Convolutional Generative Adversarial Networks' (arXiv:1511.06434 以下DCGAN)です。
Chainerで顔イラストの自動生成という記事でご存じの方もおおかったかもしれません。この記事を見たとき、「おおすげぇ」と思いましたが、まさかこれ(Qiitaの記事のほう)をやってる方と同じ職場で働くことになるとは思ってませんでしたが...

閑話休題

DCGANの面白いところは、convolution networkを使って多数の画像を低次元(100次元程度)の特徴量空間にマップする学習をする所と、GeneratorとDiscriminatorの二つのネットワークを競わせることで、学習に用いた入力セットとは似ていないネットワークを作るというゲームにした所にあると思っています。詳しくはQiitaの記事を見て頂ければわかると思いますが、これはある意味創作と模倣の本質を捉えていて、大半の創作というものは、過去その人(あるいは機械)が見聞したものを元にして、そこから派生させる(Discriminatorに打ち勝つ)ところでできている、と。例えば、クトゥルフが「形容できない」と言いながら「一般には、タコに似た頭部、イカのような触腕を無数に生やした顔、巨大な鉤爪のある手足、ぬらぬらした鱗に覆われた山のように大きなゴム状の身体、背にはコウモリのような細い翼を持った姿をしているとされる。」(Wikipediaより)と書かれてしまうのです。
誰も見たことも聞いたこともない概念は創作できないし、仮に創作できたとしてもその概念は他人に伝わらない、伝わってもノイズと区別できないでしょう。

ここで、創作が創作であるためには(自己を含めた)他者に伝える必要がある、という前提に立っています。「伝える」=通信であるとすると、「相手が知っていることの組み合わせ」しか通信では伝えられないという原則が立ちはだかります。

というわけで、創作の本質とは

  1. 受け手のDiscriminatorに打ち勝つ程度には既存のものから離れている
  2. 相手に伝わる程度には既存の概念の組み合わせ

であるのかもしれません。そう考えると、Discriminatorが「模倣と創造の境界線」を決定づけるので、何かが創造であるかの境界線が極めてあいまいになります。

さて、こう考えたときに、機械と機械の会話(通信)も同様に創作的に発展させられるか、というのが個人的には重い課題となります。今現在、機械と機械が通信をする内容と方式は人間が厳密に設計しています。TCP ex Machinaのように、シミュレーションによる最適化を行う事例も出てきていますが、現時点で実用されているものは極めて限定的であり、広域・ローカルの両方において広大なフロンティアが存在するのではないかと感じています。