d0iの連絡帳

気がむいたら書く

老兵としてどうふるまうべきか

老兵といってもまぁ、まだ若いつもりなのですが、もはや若手とか言ってると殴られそうなので、せいぜいコドモぶっているのが関の山です。とはいえ、世間にあえて背を向けて、20年前のコンピューティングスタイルをひきずっている面がある人間として、なんだかインスパイヤされる記事を見つけたのでつらつらと書きつづってみます。

Macintoshの最期 | ギズモード・ジャパン

デスクトップメタファーや、ファイル管理といった内容が時代遅れになっていく、というのはまことに正しいし、それに拘る人間が時代遅れ、というのはまたそうでしょう。一方で、時代についていくことは良いことばかりではないし、時代に流されずに自分の足許を固めるのもまた悪いことばかりではない。結局のところ、その人が知的生産者、あるいは知的消費者としてじぶんのありようをどのように位置付けるかが問題であって、道具はそのありように応じて選べれば良い、ということだと思うのです。


自分は、古いMacOSWindows 3.0aもMac OSXもWindows 95以降の流れも、なんとなくちょこちょこと使う機会に恵まれました。特に最初に経験したMacOS (Powerbook 100)の衝撃はすさまじく、ひながいちにちHypercard*1で遊んでたりしました。一方で、Windows 95以前にUnix系の操作環境になじんだのもあり、CUIのダイレクト感や、さまざまなスクリプトで自分の道具箱を充実させていく自由度についても大変なじみぶかいものがあります。

で、いろいろ使ってみて、自分が落ち着いた環境が、「Debian系、全画面ターミナル、Emacs、デスクトップ環境なし、Window Managerはratpoison、日本語入力はskk」という、ディストリビューションEmacsのバージョンはともかく概念的には20年前からさほどかわっていない環境です。会社支給の、本来はWindowsで使うことが前提となっているPCすら、「これでは仕事にならない」といってUbuntuに入れ替えています*2

結局のところ、音楽ファイルやらなんやらを管理するのは、自分のコンピュータの使い方としてさほど重要じゃなくて、それよりもこの先10年同じ使い方で深められることを選んだのでしょう。学習を避けたというよりも、いままでの蓄積からの断絶を避けた、といったほうが適切だと思います。

デスクトップメタファーの死は、我々が古い情報管理の方法を捨てるために必要な最後のステップです。寂しいけれど、有意義なステップです。従来の方法は、現在我々が日々処理している大量の情報を扱うためにデザインされたものではありませんでした。我々も、我々が扱う情報も、変わってしまったのです。そしてMacも、デスクトップという概念も、迎えるべき死を迎えようとしています。

どっこい生きてるど根性、あるいは、老兵は死なず、ただ去るのみ。おそらく、デスクトップメタファーは死ぬことはないでしょうが、私のように過去に縛られた人間も多いですし、iOS的なメタファーはまだ、ファイルを通じたコラボレーションという領域を置き換えられていないような気がします。僕の印象では、NapsterあるいはGnutella的な、「たくさんある等価なファイルを適当に管理する」というフォーマットに一番適していて、それ以外のデータは特定のアプリケーション領域に閉じ込められてしまっているように感じられてしまいます。

意地の悪い言い方をすれば、ソーシャル、という名のメタ生産であって、生産の対象がコミュニケーションに遷移した、という見方もできるかもしれません。

WinFSPlan 9も含めて、ファイルシステムを超えた情報管理の統合は、あまたの計算機技術者が一度は抱いた夢だと思います。その夢が現実に着地するとき、現実とのすりあわせ部分(iOSの場合、データ中心主義ではなくアプリ中心主義なアーキテクチャ)を受け入れるか、あるいはあえて受け入れないかというところで、老兵は老兵なりの価値=不動点としての価値を作れたら良いなと考える次第です。

*1:なぜか脳裏に 'magic' というキーワードが去来します

*2:無線まわりの面倒にめげてUbuntuに転んだけど、その他の部分の複雑さに、自分に扱える範囲はDebianがせいぜいだなーと反省中