d0iの連絡帳

気がむいたら書く

なぜSKKでなければならないのか

今日は体調不良でお休み。

そんな中、簡単に「何故SKKでなければならないのか」の思いのたけを綴ろうかと。まずは箇条書き。そのうちreviseします。

SKKについては、SKKの特徴(SKK OpenLab) あたりを見て頂ければ良いと思います。ポイントは以下の3点。

  1. 1987年に行われた基本設計に忠実な状態で、現代でも利用可能 → この先も利用可能である蓋然性が高い
  2. (慣れれば)思考を妨げない単文節変換 → 知的生産の道具として最適
  3. 変換には簡単なトレーニングが必要 → ハードルが高い?

コンピュータ上で何かを表現する技能は、ICTがこれだけ発達してその上で生産が行われている現状を鑑みるに、ほとんど必須技能と言っても良いと思います。そこで、バカなIMEとか、ことえりとか、インターフェイスが進化したりする他の連文節変換方式が de facto standard となることは、大上段に言うと、日本語文明に対するコスト (というか損失) が大きいことを意味する、かもしれない。

小さく考えても、連文節変換は、考えながら入力することは難しいと僕は思っています。なぜなら、大きい単位で「入力→変換→確定」のプロセスが動くので、アタマがカーソルの前後を行ったりきたりしなければいけない。さらに、文節区切りをミスったりすると、その修正にわりと大きな時間が取られてしまいます。そうすると、せっかく頭の中で考えていることも、PCの操作に気を取られている間にどっかに消えてしまうかもしれません。そんな損失も。

単文節変換であれば、カーソルとその直前 (SKKの場合は kakutei-early nil にすると最大2文節) にだけ気を配れば良いので、何を書くかに集中できます。

ちょっとしたトレーニングさえできれば、小学生でもSKKは簡単に利用可能です(だって単純だもの)。むしろ、「送りとは何か、文節とは何か」という教育をしている過程であれば尚更都合が良い。というわけで、小学校高学年〜中学校ぐらいの情報処理教育 (か国語の時間) に、算盤を教えるようにSKKを教えて、入口のハードルを飛び越えさせてしまうのが良いのではない、かなぁ、とか思う昨今であります。

やっぱり調子がわるいので、今日はここまで(←寝てろ)。